脊椎梗塞発症から今日までの軌跡
第二章 ありがとう
(脊髄梗塞)
数日後、K医師より検査の結果が伝えられた。
「病名は脊髄梗塞です。発症の原因に付いては…、不明です。」
「脊髄梗塞?」聞き慣れない病名だった。
医師の説明では脊髄神経が何らかの原因で破裂して、出血を起こして下半身に行く神経を妨害してるとのことであった。
簡単な話、脳梗塞の症状が脊髄で発症した様なものらしい。確かにMRIの撮影画像で脊髄の8番~10番当たりがにじむ様に濃くうつり出血していることを物語っていた。
私には脊髄を圧迫する様なことに心当たりがなく医師の説明に納得が出来なかった。
「本当に治らないんですか?」
疑う私に医師は…「治るのは奇跡ですよ…」そう答えた。
私は、医師の言葉を聞きながら太股をつねった。太股は、医師の言葉を証明するかの様に何の反応も示さず静かに清閑していた。それでも私は、現実を受け入れられず奇跡をしんじていた。
その後の入院生活は、奇跡を信じる思いと、現実を思い知らされる格闘の日々だった。
しかし、奇跡を信じる私の思いが現実の試練によって打ち砕かれるのに時間は掛からなかった。
(死~生)
8月3日の暑い夏の時期、私は神奈川リハビリテーション病院(通称カナリハ)に転院した。
北里東病院は治療目的の病院で、治療方法が無い私の病は転院を余儀なくされ、障害者としてのリハビリを受ける以外に道は無かった。
カナリハは障害を持つ人たちが社会復帰をするための厚生施設の様な所で、院内では車椅子で逞しく動き回る沢山の人たちが各々の訓練に励んでた。
医師から「治ることは無い」と告知を受け、何の根拠もない奇跡を信じる私には、懸命にリハビリをする人たちが妬ましく思えた。
「障害を追った身体で頑張って何になるんだ」
私は心の中で嘲笑った。
不安と苛立ちの中で自問自答を繰り返す内に、肉体のみならず心に大きな障害を追っていた。
心のコントロールを失った私は、「こんな身体で生きていて何になるんだ!」と、不自由な身体を憎み、先の見えない人生に不安を感じ、未来を放棄することしか考えられなかった。
転院して3日目の夜、不安が頂点に達していた私の思考は「死にたい、死のう…」そうの思いばかり強く感じた。
私は車椅子に乗り、ナースセンターの後ろを通り、非常灯で照らされた薄暗い廊下を進んで非常階段に向かった。
ひっそりと静まり帰る階段の手前で立ち止まり、下り階段を見つめた。
「このまま車輪を前に押せば階段から落ちる」そう思った。
私は、ゆっくり車輪を前に進め、落ちる寸前で止まった。
目を閉じて今までの出来事を振り返った。
脳裏には、これ迄の楽しかったことや家族、友の顔が思い出された。
「今までありがとう…そして、ごめんなさい。」
そうつぶやき、ゆっくり目を開け階段を見つめ直した。
「ここから落ちれば死ねる!」
そう思った瞬間、身体が震え手が動かない。
あと5センチ前に進めば落ちるのに…。
「怖い!死にたく無い!」
突然、強い恐怖を感じた。
そして自ら死ぬことも出来ない情けない思いと恐怖で身体が震え、その場から動くことが出来なくなった。
震える我が身を抱き締めて死ぬことの恐怖を感じていた。
私の心にはぽっかりと穴が空き、孤独感と人生への不安感から行き場を失った。
部屋に戻り、自分の情けない行動を反省した。
「私は、どうすれば良いのか?」
消灯を過ぎ、静まり帰る病室のベット上で考えていた。
そして出た答えは、単純なものであった…。
「今の身体では何も出来ない、今は何も考えずリハビリをやろう。」
決して人生を変える発想とは言えないが、私が障害を追って初めて前進出来た瞬間だった。
行き場を失った私に考えられる精一杯の答えだった。
私は、自分の出来る限りのリハビリを取り入れ、障害者としての訓練をスタートさせた。
(リハビリ)
入院して1ヶ月が過ぎ、看護師に手を借りなけれ出来なかった夜中の寝返りやトイレ、お風呂も少しづつ一人で出来るようになっていた。
リハビリでも車椅子で40キロの重りを引き、鉄アレイも7キロの物を使い、唯一自由のきく上半身を鍛えた。
階段や急な坂道の上り下りにもチャレンジした。
スポーツは、バスケットにテニス、ソフトボール、長・短距離のレースなど、経験出来るチャンスがあれば進んでやった。
外出訓練ではエスカレーターを体験し、手動式の車の運転もマスターした。
日々こなすリハビリは、ハードだったが私にとって決して辛いものでは無かった。
むしろ、車椅子で自由を手に入れるための希望の訓練に感じていた。
それから間もなくして、私は4ヶ月のリハビリ訓練を経て神奈川リハビリテーション病院を後にした。
(希望・・・)
脊髄梗塞を発症して半年が過ぎ、車椅子での社会復帰をした私に待っていたのは、自由や希望などでは無かった。
健常者の時に暮らしていた家は、段差や狭い廊下で車椅子での対応が困難のため、引っ越しをするしかなかった。
何件もの不動産を当たり何十件もの部屋を見聞したが、車椅子での生活に適した物件が無かった。
中には、車椅子は部屋を傷つけるとの理由から拒否される物件も少なくなかった。
漸く見つけた物件も決して車椅子に適したものでは無く、玄関の段差を初めトイレやお風呂はリハビリで訓練した物とはまるで違い、不自由な身体で適した環境を探すのは困難であることを身に染みて感じた。
外出時は、坂道や階段のみならず、路上の窪みや縁石が道を阻み、無造作に捨てられたゴミも、路上に止まってる自転車も歩道に乗り上げた車も行く手を阻み、私の行く先には絶えず障害物が存在した。
障害を持つ人たちのために作られたトイレやエレベーター、駐車場に至る公共施設も、心無い一部の人が我が物顔で利用しているのを見て私は心を痛めた。
雨の日は車椅子を漕ぐ妨げになることから傘を使えず雨に濡れ、雪の日はタイヤがスリップして外出が出来なかった。
車椅子で自由を手に入れるために取り組ん出来たリハビリは、退院してもなお難易度を上げて続いていた。
私は、決して平等とは言えない社会の洗礼を受け、障害者としての歯がゆい思いを感じた。
障害を持つ私たちにとって、社会は希望の場で有る前に、毎日が言葉には言い表せない悲しみと我慢を経験する場であることが分かった。
車椅子で生きる社会には、どんなに訓練をしても一人では行けない場所が存在している。
障害を持つ私たちにとって、街に設置されたスロープもエレベーターもトイレも駐車場も大切な要具だけど、それだけではこの社会で生きて行くのは厳しい様に思う。
何より大切なもの、それは一人一人の優しい思いやりだと強く感じる。
障害を持つ私たちは決して独りでは生きられない。
どんなに頑張っても、皆の思い遣りがなければ生きていけない。
私は、時間があれば外出する様に心がけている。それは、日々の訓練をかねて地域社会の検証をするためである。
そんな中で、人との触れあいは私にとって最も大切な日課となっている。
ある人は、私に「大丈夫ですか?」と声を掛けてくれる。
ある人は、エレベーターのドアを然り気無く押さえてくれる。
ある人は、危なかっしい私の行動をそっと見守ってくれる。
ある人は・・・。
障害を持つ私たちにとって、安心出来る瞬間が優しさとの出会いである。
私が健常者の人と触れあうことで、障害を持つ人たちが皆の思い遣りで支えられていることを伝えていきたいと思ってる。
そして優しさを分けていただいた人には、必ず「ありがとう」の言葉を贈ってる。
私はこれからもこの身体を不自由に感じ、この社会を不便に感じながら生きていく。
でも、この身体でしか感じられないことがある。
この身体しか出来ないことがある。
この身体でしか伝えられないことがある。
だから私は一人で街に飛び出し、沢山の優しさと触れあう為に心の足で歩き続ける。
そしてまた、沢山の「ありがとう」を皆に贈る。
人がいるから優しさを見つけられる。
人がいるから「ありがとう」が言える。
人がいるから生きられる。
私は思う。
「肉体に宿る障害は問題では無い!心に宿る障害が問題なんだ!」
「どんな身体でも心が晴れていれば必ず明日が見えて来る!」
いつでも心に「ありがとう」と言う気持ちを持ち、感謝の気持ちで人と触れあえば、必ず身体に宿る障害の苦しみは癒える。
私は今、沢山の人たちに支えられ自らの足で新たな人生のスタートラインに立っている。
私は今!一人じゃないことを強く感じて生きている。
「ありがとう、感謝」